三木産業350年の歴史HISTORY/MIKI 350 Years

青は藍より出でて
藍より青し

since 1674

三木産業のはじまりは
江戸時代初期、阿波藍を全国へ

戦国時代、播州・三木城(兵庫県三木市)の城主・別所長治が秀吉との戦いに敗れ、当時10歳だった従兄弟の別所規治は家来とともに阿波国に逃れたと伝えられています。ここで規治は姓を三木と改め、名を與吉郎と称しました。そして江戸時代を迎えた延宝2年(1674年)、第二世である高治が藍の取り扱いを始めました。これが三木産業の創業です。

やがて阿波藍は藩の特産として奨励され、全国にその名を知られるところとなりました。徳島の藍は、その品質の高さから別格扱いで、阿波の藍を「本藍」、他の地方の藍を「地藍」と区別されたとも。深く鮮やかな藍色は、現代ではジャパン・ブルーとして、世界中から愛されています。

その後阿波藍は全国的に隆盛。寛政元年(1789年)に江戸本材木町(現在の本社所在地)に店を構え、藍屋與吉郎と称して第八世は関東一円に販路を拡大、今日の三木産業の礎を築いたのです。

柔よく
剛を制す

明治維新と
印度藍、人造藍への転換

明治時代に入ると、インドから流入し始めた安価な印度藍におされ、阿波藍は衰退していきます。阿波藍だけを売るべきだとする守旧派(2,333人)と印度藍も売ってもよいとする併売派(1,059人)が対立する中、貴族院議員であった第十一世順治は時代の流れを敏感に察知し、1897年(明治30年)併売に踏み切りました。

印度藍に続き、1898年(明治31年)に人造藍が登場すると、さらに競争は激しさを増していきます。三木産業はいち早くドイツ・ヘキスト社の関東地域における一手販売権を獲得し、1904年(明治37年)、業界に先駆けて人造藍の販売を開始しました。翌年には関西にも販路を広げるべく大阪市西区南堀江に大阪支店を設置しています。

こうした乱売戦の果てに、特約店間で合同への気運が台頭し、1909 年(明治42年)12月、藍商人が一丸となって大同藍株式会社を創設しました。三木家はこれまでの功績により、第十二世康治が同社の代表に就任しています。以来留任を重ね、 1932年(昭和7年)7月、任務を終えて会社が解散されるまで25年の長きにわたり同社を主宰し、人造藍業界に多くの足跡を残しました。

天半藍色

勝海舟の言葉
「商売は、独り占めしてはいけない」

幕末の時代、浅草寺の近くにあった剣道場を通じて、幕府の勝海舟と交流のあった第十一世順治は、ある時揮毫を依頼しました。その時書かれたのが「天半藍色」の書です。

その意は「三木さん、天下の藍玉を一手に握ろうなどと欲張ってはいけませんよ。まあ、腹八分目、せめて半分ぐらいの目標で、商賣はおやりなさい。」というもので、三木産業の事業経営の指針ともなりました。

扁額は、永く大阪営業所の応接室に掲げられていましたが、惜しくも戦災で焼失してしまいました。しかしこの言葉は失われることなく受け継がれています。

第十三世與吉郎氏は、『出藍録』(昭和30年、三木産業株式会社発行)のなかで「私はこの言葉がこよなく好きである。文字から受けるおほらかな響きもさることながら、此の四字に含ませて賜った海舟先生の教訓は、單に商賣道のみならず、凡ゆる事柄について、私にとっては、此の上もなき貴い戒めと観じたからである。」と述懐しています。

情報の質と量
そして多様性

各種染料、工業薬品への進出と
株式会社としてのスタート

藍に代わるものとして着目したのが、新しい技術によって生産されるようになった輸入染料でした。ドイツのカレー染料会社が日本進出にあたり当社との提携を望んだことで一手販売権を獲得し、1910年(明治43年)、輸入染料の本格的な営業活動に乗り出しました。

一方で、1914年(大正3年)6月、第一次世界大戦をきっかけに政府が染料の国産化を奨励したため、多くの染料工場が出現しました。こうした工場群が生産する国産染料の取扱いをはじめる一方で、染料工場が大量の工業薬品を消費することに着目して、工業薬品の販売という新分野へも進出しました。

こうして業容を拡大する中、1918年(大正7年)4月1日、三木與吉郎商店は商号を変更し、新たに株式会社三木商店として発足しました。しかしその年に第一次世界大戦が終わり急速な不況に見舞われると、1923年(大正12年)9月には関東大震災が発生、業績は低迷してしまいます。

変化に対応する者が
生き残る

満州事変、戦時下の
経営革新と海外への進出

第十三世眞治は過大な商品在庫にメスを入れるなど企業の合理化を断行、これが功を奏して業績は急速に回復しました。

しかし時代は1931年(昭和6年)に満洲事変、続いて日華事変が勃発、1941年(昭和16年)12月には太平洋戦争に突入します。染料界も統制下に置かれることになり1941年(昭和16年)1月、国策会社である日本合成染料株式会社が設立され、当社も傘下に包含されました。国内での販売が自由にできなくなったことから、それまでに開設していた旧満洲国の出張所を足がかりに、新天地を求めて事業を大陸へ移していきました。

一方、国内においても新しく子会社を設立するなど戦時下の窮状打開に努力を続け、1943年(昭和18年)8月16日付で商号を現在の三木産業株式会社に改め将来への飛躍に備えました。

社会への貢献
教育への思い

国政への参画と貢献

わが国にはじめて議会制度が開設され、第一回帝国議会の開院式が行われた1890年(明治23年)11月、第十一世與吉郎は、貴族院議員としてこれに臨みました。以来、当社の社長は三代にわたって国政に参画しています。

さらに、十三世三木與吉郎眞治は、育英事業を目的に1940年(昭和15年)に「康楽会」を設立、初代理事長を務め、奨学金の無償供与に取り組むなど教育振興に力を注ぎました。
戦後には、徳島大学の成績優秀な学生や研究者に「康楽賞」の贈賞を行うなど、その思いは現代にも受け継がれています。

世界に飛躍する
三木産業

戦後の復興そして
海外への挑戦と飛躍

1945年(昭和20年)8月15日、終戦。この戦争による損害は長い三木産業の歴史の中でも最も大きなものでした。先祖から伝わった三百町あまりの農地の大部分を失うと、貸しビルの建設に舵を切り、戦後30年間で東京2棟、大阪1棟、徳島1棟のビルを建設しています。

会社再興に向けて立ち上がった第十三世眞治とともに、全社員も奮い立ち、一丸となって復興をめざしました。
「このとき、社員は本当によく働いてくれた」との眞治の述懐を裏づけるように、翌年度(昭和21年度)には早くも利益を計上し、その後も期を追って業績を伸ばしていきました。

第十四世與吉郎良治は国際化時代を予見し、1967年(昭和42年)当時、まだ化学品専門商社がほとんどアメリカに進出していない時代に、ニューヨークに現地駐在員事務所(1973年(昭和48年)2月に法人化)を開設して対米貿易に着手しました。また1975年(昭和50年)には、ドイツ・デュッセルドルフに現地駐在員事務所(1980年(昭和55年)法人化)を開設。1988年(昭和63年)にタイのバンコクに現地法人を開設し、文字通り世界に飛躍していきました。

サステナブルな
未来へつなぐ

グローバル展開で
地球規模の課題に挑む

三木産業は1995年(平成7年)4月、東京本社を設置し、東京を中心の営業体制としました。
一方で、1996年(平成8年)11月にはMIKI SANGYO (USA) INC. がニューヨークからニュージャージーへ移転、現地でのビジネス拡大を目指しています。

2000年(平成12年)6月、第14世三木與吉郎は代表取締役会長に、三木緑副社長が代表取締役社長に就任しました。新たな事業ビジョンとして地球環境の保全に貢献する取り組みをスタートし、2002年(平成14年)3月、「ISO14001」認証を取得。地球環境に配慮した製品とサービスの企画・開発・販売を推進しています。

2003年(平成15年)8月には、中国上海市に現地法人「三与(上海)貿易有限公司」を開設しました。2013年(平成25年)3月、インドネシア(ジャカルタ)に現地法人、PT. MIKI INDONESIAを設立。米、独、タイの現地法人とともにさらなるグローバル化を展開しています。

MIKI BRAND-1 専門性